二週間に一度、水曜日、私はいつも早退する。その時間にしか病院に行けないからだ。もっと言うと、担当の先生がこの曜日のこの時間帯にしかいてくれない。大変厄介でならないのだけれど、まあ先生にも先生の都合があるだろうから。 事情をとっくに知ってるクラスメイトに送り出されて、私は鞄を持った。他クラスだろうか、体育終わりの生徒達とは一人だけ反対方向に廊下を歩いていく。 「あれ、帰るのか」 「うん」 突然、声をかけてきたのは嵐山だった。嵐山とは去年までクラスが同じで、席が隣で、それだけだ。仲はいいけど、私の中では別に友達ではない。学校にクラスメイトはいても、友達は一人もいなかった。それは、さておき。 「じゃあね」と私は手を少しだけ上げて、そうしたら嵐山も「うん」と言ってクラスメイト達を追って私に背を向けた。 私は少し垂れ下がった鞄の紐をそのままにして、階段を降りた。すれ違った全然知らない、優しそうな先生に「早退か?」と聞かれて私は頷く。「熱が出て」という余計な嘘をついてしまうのは、どうしてなんだろうか。多分、きっと誰にも期待してないからだろう。 「それで、最近はどう」 「うーん、特に、何も」 「何もかあ」 先生は苦笑する。でも本当に何も無いので、そう言うしかない。新しいことは特に何も無くて、私が私自身をどうしようもなく忌避していることや様々なことを考えすぎてしまうこと、噛みすぎた指先がボロボロになっていることはいつも通りだ。 「今日は何を考えてた?」 「色んなことを、ですね」 「あなたは色んなことを考えすぎちゃうきらいがあるからね。別に、それは悪いことではないんだけど。どうしても、疲れちゃうから」 この会話ももう何度目だろうか。 別に、嫌なんじゃない。ただ私の病気とよばれるそれはゆるやかに悪化していて、改善の余地がないように見えるだけだ。精神疾患というものはすべからくそうなのだ、といろんな文字列で納得させられていた私は、はいそうですか、というふうに頷くだけだ。 ここには、薬を貰いに来ている。

『薬、飲むんだな』 『うん』 『お茶で流し込むのは良くないんじゃないか?』 嵐山と同じクラスだった頃、私は彼とそんな会話をした。私はプチプチと数個の薬を出していて、彼はそれを興味深そうに眺めていたけれど、別にたいした薬じゃない。セロトニンを調整する薬と、脳をどうにかする薬と、それに伴う副作用を消す薬と、なんかその他諸々。場合によって飲んだり、飲まなかったり。本当は良くないけれど、家だとスポーツドリンクなんかで流し込んでいたので、嵐山の言うことはちっとも心に響かなかった。でもとりあえず『うん』とだけ言ったら、嵐山は『手応えがないな』と言って笑う。そうして水のペットボトルを寄越してくれるので、私はそれを貰って薬を流し込んだ。そのぐらいのことが出来る仲ではあった。 『間接キス』 『空気中の方が、多分もっと酷いぞ』 『それは、そう』 笑ったらまだ最後まで呑み込めていない錠剤が胸につっかえて、少し苦しくなったからもう一度嵐山の水を飲んだ。 そういうことが、前にあった。 目の前にいる嵐山を見て、私はそれを久しぶりに思い出した。思考の海に沈んでいたそれを引っ張り出して、ぼんやりと眺めているうちに彼は小首を傾げた。 「あれ、今帰り?」 「嵐山も?」 「このあと、打ち合わせなんだ」 体操服を着た生徒達と足音に揉まれながら、私と嵐山は逆走する。通りがかった先生は私ではなくて嵐山に声をかけて、私は楽ができる。嵐山はなんか、ボーダーのすごい人、だからそういうことがあるらしい。私にはよく分からないけど。私は、私のことしか考えられないから。 「今から病院?」 「うん」 知ってるんだ、と思った。別に隠してる訳でもないんだけど、でも嵐山くんみたいな人間の口から病院、って言葉が出てくるのはなんだか違和感があった。どうにも嵐山は、あまり人間めいていないものだから。英語の教科書に出てくる、日本人の男の子、あれに似ていると思う。 「俺も、途中まで行っていい?」 「打ち合わせは?」 「まだ時間があるんだ」 「そう、ならいいよ」 「助かる」 「なにが?」 私がそう聞けば、彼は笑った。 私はてっきり学校の外に出るまでかと思ったけれど、学校の外に出ても彼は隣にいて、道を歩いて、気がついたら私たちは同じバスに乗っていた。まあ、嵐山がいいならいいかと私は思った。私の病気のことも、病院のことも、私は別に何も恥じてはいない。私が恥じているのは、私がこうして息をしていること、それだけだから。 「私、あれになりたい」 私は斜め前に座っていた妊婦さんをそっと指さす。嵐山はこちらを覗き込むようにして「子供が欲しいのか?」と言う。妙に迫力があるので、私はちょっと笑った。嵐山も笑っていた。 「違う、胎児」 「そっちか」 「赤ちゃんの頃の記憶って、何も無いでしょ。なんなら自我もないし」 「言われてみれば、確かに」 でもどうだろうな、と嵐山は続けて、私の頭の中の音が止まった。ずっとこうならいいのに、と思った。 「人間は考える葦って、言うだろう」 「パスカル?」 「そう。人の思考は宇宙を包むぐらい大きいって、そのひとが言ってた」 「絶望的だ」 「そうか?」 「今、ものすごく死にたくなったよ」 「……うん、そうか」 その反応を見て、私は言わなきゃ良かったなあと思った。分かりきったことを、私にしか分からないことを、言わなきゃ良かったのに。私は指を噛んだ。普段は、あんまり人前ではやらないようにしているけれど、なんだか耐えられなくなってしまった。夕方なのも、あるかもしれない。夕方と夜は頭がグチャグチャになりやすい。思考がいつもより横滑りして、私は酔いそうになった。指を四本まるごと突っ込んでガシガシと噛み始める私を見て、嵐山は目を丸くしていたけれど、私は別にどうでもよかった。友達じゃないから。私には友達がいないから。 「今、何考えてるんだ?」 嵐山はそんなことを言って、私は口から指をはなした。唾液が口から零れそうになって、嵐山は当然のようにそれを素手で拭った。私は驚いた。 「色んなこと」 「色んなことって?」 「明日の課題が嫌なことと嫌な先生のことと今まであった嫌なことオムライスの作り方と頭が痛くてたまらないことと嵐山のこと古文の読み方暗唱に耳の塞ぎ方と薬と薬の飲み合わせと薬のこと苦しい苦しい苦しいいや苦しいのは感覚ってことで私はまともになりたいってこと足がつりそうで太腿も肉になってぐらぐらすることここは息が苦手で私はこのままだと誰かの頭を殴ってしまいそうなことが苦しくてたまらないし助かりたいけど昔からラジオ体操にはいけなくて足りてないビー玉を飲んだことがあるからそれはまだ出てこなくて怖くて────」 私の頭の中は簡単に決壊してしまって、全部が出てくる。私の全部。私のおかしいところ、全部。私のよくないところ、全部。私の頭の悪夢、全部。全部がまろびでて、簡単に嵐山を飲み込んだ。 嵐山は目を瞬かせて、それを見ていた。飲み込まれたあとも、ぱちぱちと、その男の子にしては長いまつ毛を動かして私の方を見ていた。私の言葉は最後まで止まらなかった。バス停についても、私はそこで座り込んで十分ぐらい捲し立てた。そうして、息が切れて、軽く過呼吸になって、ようやく止まった。ぜひぜひと息を上げている私の背中を撫でた嵐山は、いつかと同じように水をくれた。私はそれを飲んだ。噎せた。 「間接キス」 「他に言うことないの?」 「ごめん」 嵐山は笑った。それから、病院どこ?と聞いてきて、私は結局嵐山と病院の前まで来た。私は冗談で「嵐山も寄ってく?」と言ったけど、丁寧に断られた。まあ、当然なんだけど、なんだか納得がいかない。 「なんで、この病院なのか聞いてもいいか?」 「一目惚れした」 嘘だけど。 「……外観に?」 「普通に、前の病院の紹介」 「そっか」 嵐山は少し考える素振りをして、また口を開いた。 「別の病院とかは、やっぱり難しい?」 「何で?」 「……いや、普通に不謹慎だから、やめておくよ」 「私もそうした方がいいと思うよ」 なんだか嵐山も人間なんだなあ、と私は感慨深く思った。いや、最初から人間なんだけども。 「嵐山は、もうこんなとこ来ちゃ駄目だよ」 「駄目か」 「駄目だよ。もっと楽しいところ行こうよ」 「楽しいところって?」 私は答えなかった。嵐山に貰ったペットボトルはまだ半分残ってたけど、それは貰っていくことにした。